はじめに
今回は2025年1月5日で設立40周年を迎えた、アイベックステクノロジーの変遷を記事にまとめました。 代表取締役社長の森田さん、取締役兼事業戦略室長の馬場さん、システム技術部部長の久保さんへのインタビューをもとにお届けします。
少数精鋭の技術集団
(インタビュアー)アイベックステクノロジーの前身である、LSIシステムズはどのような会社だったのでしょうか?
(森田)私自身は、新卒で入社した外資系半導体設計会社で、当時先進的なLSIのトップダウン設計を学んでいましたが、仕事内容に物足りなさを感じ、LSIシステムズに転職しました。LSIシステムズに入社したのは1986年、会社設立2年目のことです。当時はLSI設計者3名、マスクデザイン3名、事務1名の合計7名の会社でした。設計にCADツールを使用することが主流の時代に、PC上の8086アセンブラ+ISAボード+ブレッドボードで、LSIのプロトタイプを作成し設計を進める姿に衝撃を受けました。1つのチップを1人で起こす少数精鋭の技術集団で、自分もそこに加わりたいとの思いで入社を決めましたね。
専用LSIの市場独占と衰退、JDLからの資本提供
(インタビュアー)ここからは、会社の変化をまとめた簡単なグラフを見ながらお話を伺いたいと思います。
(インタビュアー)LSIシステムズ設立当初の変動がかなり大きいですね。どのような出来事があったのでしょうか?
(森田)当時ベクターフォント用のLSIを4つ設計・販売しました。これが大当たりしまして、会社の業績は非常に良かったです。ニッチなチップでほぼ市場独占状態でしたね。 しかしこの好調の波は長くは続かず、TrueType Font(トゥルータイプフォント)が登場したことで、ベクターフォントの需要は低下、当社からLSIを供給していた会社は1988年に倒産してしまったのです。
(インタビュアー)メイン事業に暗雲が立ち込めて、社員のみなさんは不安が大きかったのではないでしょうか?同時期に日本デジタル研究所(以降、JDL)からの資本提供を受けていますね。これはどのようなきっかけがあったのでしょうか?
(森田)JDLが自社でコンピュータを開発していたこともあり、半導体関係の会社を子会社化することを検討していたようで、当社へ声がかかりました。JDLから出資を受けることで経営の安定化を図り、JDLからの出向者の受け入れも実施されました。
LSIベンダからデザインハウスへ移行、事業拡大により業績好調に
(インタビュアー)1989年にJDLから出資を受けた後、右肩上がりにグラフが上がっていきますが、これは具体的にどのような出来事があったのでしょうか?
(森田)自社製LSIに加え、特定顧客向けのLSI開発とその販売は継続していましたが、LSIの微細化が進むたびに開発費用がどんどん値上がりしていきました。LSIシステムズ設立時の1980年代は、LSIを1つ開発するのにかかる費用は2000万円ほどでしたが、1990年代には倍以上の5000万円ほどになっていました(現在は数十億円以上とも言われていますね)。こうなると自社で独自チップを開発するリスクが高すぎるため、LSI開発事業を縮小せざるを得ませんでした。 そこで新たな活路として舵をきったのが、LSI受託開発、ボード・システム製品の受託開発でした。これらの受託開発が急成長している中でも、チップベンダとしてLSI開発を継続させ、業績は回復していきました。
(インタビュアー)新たに事業を拡大していた頃、1999年には創業の地、厚木から神奈川県川崎市麻生区南黒川(以降、黒川)へ社屋を移転されていますね。
(森田)黒川への移転は、3代目社長の代に実施されました。7名で創業したLSIシステムズでしたが、このころには社員数が40名ほどおり、事務所が手狭になっていました。今後も優秀な人材を継続して事業をさらに拡大していくため、JDLが所有していた黒川のビルへ移転することになりました。 またこの頃、既存事業のLSI受託開発、ボード・システム製品の受託開発に加えて、検証技術がビジネスの柱に加わりました。具体的には、Verisity社SpecmanEliteの有料トレーニング・Techサポート・セミナ発表・検証コンサルティングを行っていました。受託ビジネスやIP販売、検証ビジネスでこの頃の業績は非常に好調でした。
繰り返す衰退と繁栄、リーマンショックによる人材流出
(インタビュアー)LSIベンダとしての危機を乗り越えて、会社は順調に成長していったのですね。ただグラフをみると、この好調期からまた下がっていますね・・・これは何があったのでしょうか?2004年には社名をアイベックステクノロジーへ変更していますね。
(森田)2002年には社員数が50名を突破して、これからというとき、赤字を出してしまったのです。5期連続増収増益の中での赤字ですから、かなりのインパクトでした。このタイミングでJDLから社名変更の打診があり、子会社には「アイベックス」を付けるという条件が提示されたので、「アイベックステクノロジー」へ社名を変更しました。2002年の赤字からまた業績は盛り返しますが、2008年にリーマンショックが訪れます。2010年には15名ほどの退職者が出ました。
(インタビュアー)この頃はかなり深刻な会社存続の危機だったのですね。この頃はどのようなことを重視していたのでしょうか?
(森田)職場環境を見直したり、マネジメント体制を変更したりと、各個人にやりがいを感じてもらえるような職場づくりに着手しました。しかしリーマンショック後の業界的な低迷により、受託開発の仕事はほぼ無くなってしまいました。代わりに製品販売で売り上げを伸ばしましたが、事業の柱の1つであった受託の売上規模をフォローできるほどではありませんでした。そんな中でも会社が存続したのは、製品事業を展開していたこと、数少ない受託事業をかならず成功させることで次に繋げられていたこと、個々の社員の人間力・技術力に優れていたことでした。
底力を試された高難易度プロジェクト
(久保)私と馬場さんは2002年入社です。リーマンショックの2008年近辺は非常に苦しかったのを覚えています。その中で、海外向けコーデックの受託開発プロジェクトのおかげでモチベーションを保つことができました。
(馬場)このプロジェクトの内容は非常に困難でしたね。例えると「軽トラを作ってほしい」とお願いされて作り始めたはずのものが、最終的に完成したものは「戦車」だった、という感じでした。当初の仕様とは全く異なるスペックになっていましたね。
(久保)当時、世界一と謳われていたTandberg社のコーデック装置に対抗して開発したので、結果として世界一のコーデック装置を開発しました(笑)
(馬場)世界一の製品と同じスペックで、安く売るという自爆上等な戦略でしたね。今なら絶対に(200%)やらないです。若かった・・・。ただ、当時人材余剰だったアイベックステクノロジーにとっては、この開発のおかげでモチベーションを保つことができ、雇用の継続に繋げることができました。当時多くの同僚が退職する中で、私も久保さんも会社が倒れるところまで見届けようと覚悟していましたが、会社は無事存続しましたね。技術があるから底力がありました。
自社IPを拡充し、放送機器市場へ参入
(インタビュアー)かなり業績が低迷していた中で、新しい活路として2012年頃から放送機器市場に参入をしていますね。このきっかけはなんだったのでしょうか?
(森田)LSIチップベンダからデザインハウスへと事業の形態を変化させていた中でも、チップベンダとしての活動は継続していました。一部の特定顧客向けLSI(ASIC)を提供している傍らで、自社製品として映像データをはじめとする大容量データをPCI転送するためのチップ(LS6201 PCI BUS Bridge LSI)を開発し、販売していました。 次の自社開発チップのターゲットを検討している頃、当時DVDの規格が立ち上がっていたこともあり、映像圧縮規格で国際標準となったMPEG-2のデコーダIPを開発し、LSI化しました。 この経験から、放送機器向けとしてMPEG-2 422@HL デコーダをIP化しました。このIP は、当時のLSIでは性能を満たすための動作周波数が出せなかったため、デコーダコアを3並列動作させることでワンチップ化を実現したのでした。世界初の4:2:2HD対応チップの誕生です。この成果が認められ、当社のIPが放送機器用のコーデックLSIに採用されたことで、放送機器市場へ参入していったのでした。 2014年には放送機器市場を明確なターゲットに据え、HEVCデコーダビジネスでは成功をおさめました。2021年からは映像市場のターゲットを放送機器に限らず、社会インフラへ拡大しました。この頃から建機の遠隔操作や映像監視、遠隔医療の分野に進出していったのです。
アイベックステクノロジーの魅力とは?
(インタビュアー)突然ですが、アイベックステクノロジーってどんな会社でしょうか?
(森田)技術者の実力主義は、設立当初から変わらないですね。
(馬場)尊敬できるスーパーエンジニアが在籍しているところが魅力でしょう。自由度が高く、自立心のある社員たちで会社が成り立っています。事業を絞らないことで損をすることもあるかもしれませんが、やりたいことをできる方が楽しいじゃないですか。せっかく技術力のある社員が集まっているのだから、難しいけれど面白い仕事をどんどんやってきたいですね。
(久保)技術力は高いけれど、商売下手な会社です。
(インタビュアー)優秀な若手人材もアイベックステクノロジーの強みですよね。
(馬場)若手には活躍の出番を増やし、PL(プロジェクトリーダー)を担ってもらう機会をこれからもっと増やしていきます。事業のセグメントを固定していないため、やりたいと思えばなんでもできます。人数の少ない会社ですから、若手でも実力のある人の活躍の機会は多いです。
(久保)外に積極的に出て、お客様の要望や意見をキャッチすることを大事にしていってほしいですね。この経験がモチベーションや実績に必ず繋がります。
次の50周年、その先まで続く会社であるために
(インタビュアー)2020年には新事業開拓のため、CRO技術部(詳しくは「CRO技術部ってどんな部署?」参照)を立ち上げ、2024年にはHPC分野向けのサーバー組み込み用FPGAアクセラレーションカードの開発を発表するなど、新規市場の開拓に力を入れていますね。
(馬場)今、アイベックステクノロジーは転換期にあります。今までは決まった市場で成長していましたが、50周年を迎えるためには外を見ないといけません。今までの事業や成功体験にこだわりすぎてはいけないですし、エネルギーのかけ方を見直さなければならないと感じています。ただ、新しい市場を開拓していく中でも「向いていないことはやらない」「流行にとびつかない」ことを大事にしています。メーカーである限り、自分たちの製品やソリューションで伸びていきたいですね。受託事業はマーケットを知るチャンスでもありますし、今後も継続していきたいです。
(森田)馬場くんの意見と同じく、自社製品の強化が、アイベックステクノロジー成長の鍵になると思っています。単体の製品販売ビジネスで留まるのではなく、システム全体で提案していくことが求められています。また、今はGPU優勢でAIが活用されていますが、低レイテンシや低消費電力が求められるアプリケーションではFPGAの活用が進んでいくことも期待されます。自社でIPを開発し続けることで、技術力を落とさないことも重要な戦略であると思っています。 馬場取締役をはじめアグレッシブな人材が市場を開拓しており、若手社員が新しい分野の開拓に尽力してくれているからこそ、会社はこれからも成長し続けることでしょう。
おわりに
インタビューはこちらで以上です。アイベックステクノロジーの会社の歩みや、雰囲気を知っていただく機会になりましたら幸いです。多くのお客様やパートナーに支えられて、この度40周年を迎えることができました。今後も引き続きどうぞよろしくお願いいたします。